あのときの気持ちは、言葉にはできません

あのときの気持ちは、言葉にはできません

私のいちばん古い記憶では、すでに私、姉、妹は施設の子どもでした。

6歳の姉、2歳の妹。

ちょうど三つ目の施設に入ったころ、姉は小学五年生、私が二年、妹は一年生でしたが、母が私たちを引き取りたいと言ってきたのです。

私たちは、施設の先生からもかなりの暴力を受けていましたが、誰が助けてくれるわけでもなく、母からの虐待と、施設からの虐待、どちらか選ぶかでした。

けっきょく姉は施設に残り、私と妹は母の元に帰りました。

けれど帰ったその日から六ヶ月の間、

母は何度か顔を出すだけで、

帰ってくれば立てなくなるまで殴られ、

気がすむと、またどこかに出かけていくのです。

私の妹は、そころひどい状態で言葉もなく、ただじっと部屋の隅にうずくまっていました。

その妹のため、私は学校のパンを持って帰らなければなりません。

カバンも絵の具もなく、毎日手ぶらで学校に行っていました。

私はおかずだけ、妹はパンだけ、一日一回の食事でした。

けれど土日は何も食べ物がなく、しかたないので近くの店でパンを万引きして帰ります。

電気もガスも止められた家のすみで何時間もずっとだまったまま、いつも何かをこわがっていました。

夏休みに入り、毎日同じ店でパンをぬすむわけにもいかず、雨のふったある日、人通りのないのをたしかめて、 妹をつれて、近くの家のザクロの木からザクロを盗みに行きました。

妹は外がとてもこわかったらしく、ガリガリにやせたまま、雨にぬれてふるえていました。

私も、汚れきったTシャツにズボンで、必死になってザクロの実を取りました。

なさけなくて、寒くて、おなかがすいて、ふたりで泣いて、ザクロを抱えながら家に帰ったことは、今でも忘れません。

それから、すぐに施設に戻されたのです。

施設に帰ったその日、すぐに食事をしたのですが、そのとき、ずっと言葉をしゃべらなかった妹が、聞き取りにくいほどの声で「お姉ちゃん、これ全部食べても明日のごはんはあるの?」と言ったのです。

あのときの気持ちは、言葉にはできません。

そのあともいろいろありました。

自殺しようと思い、電車のホームでつかまったこともあります。

本当に、死ぬこと以外、私にはありませんでした。それから、ずっと、どこに行ったかわからない母…。

けれど、姉と妹が結婚した今、考えてみると、あのころ、気づいても知らぬ顔をしていたパン屋のおばさん。

ひとりで施設に残っていた姉が私たちを心配してずっと泣いていたこと、

母に「関係ないので帰れ」と言われながらも、おそばを持ってきてくれた近くのおじさん…。

愛してくれるはずの親、

助けてくれるはずの施設の先生、

そんな人たちから虐待を受けた私たちですが、

姉も妹も、

そして私も、

やさしさだけは忘れずに、

がんばっていこうと思います。

誰にも言えなかった私たちの<はずかしくてなさけない話>、

けれど、誰かがこの手紙を読んでくれて、

ああ、頑張ってきたんだな、

と言ってくれることを信じて、

幸せになるためにがんばろうと思います。

おすすめの泣ける話

twitterリンク facebookリンク
Page TOPへ